狩野川記念公園とは

狩野川の歴史

「狩野川台風のもたらした被害と主因」
伊豆地方に大きい災害をもたらした昭和33年台風第22号(国際名:アイダ/Ida)は潮岬の南東海上に達したころから、風台風とよばれていたが、急に本土に近づくとともに雨台風と変わった。その旬日前に同じような経路をとって被害をもたらした台風21号と同様に、東日本に大雨を降らした。特に伊豆中部にはその名のごとく局地的に記録やぶりの豪雨を降らし、その出水の早急なことと相俟って狩野川筋の人家の流失、人命を奪う惨事は言語に絶するものであった。

狩野川台風写真
展示写真 (管理棟)

狩野川台風写真
展示写真 (管理棟)


大災害の主因である雨台風22号について気象庁の発表を記すと、
(日)最低気圧877mmbで、中心気圧としては戦後最低である。
(月)東京から伊豆にのびる線上に記録的な豪雨をもたらした。
(火)伊豆半島に強雨が局部的に集中し、狩野川の決漬が各所に起り大災害をもたらした。

そのため、狩野川流域の豪雨の中心部の上流山岳の中腹から以下の地区にかたより、上部の集水地が扇状をなし、出水は一時に渓谷に集り、同時刻に幹川に押しよせ洪水ピークは中流から下流まで過大な流量を現わし、狩野川筋のうち、下流部の惨害は諸所におこり、堤防の決漬から家屋、人命の喪失、耕地その他の流失については当時の報道記録で明確にされているとおり、22号の降雨はその総量において異例な記録をしめし、26日湯ヶ島の雨量は過去44ヵ年間の最高日量488mmを超えて、684mmに達し、前日の54.6mmと合計すると748.6mmという驚異的な記録をつくった。以上の原因によって生じた総被害は206億2,520万円に及んだ。

狩野川台風殉難者慰霊碑

狩野川台風殉難者慰霊碑


狩野川台風殉難者慰霊碑 碑文」
昭和三十三年九月二十六日台風二十二号伊豆半島を急遽縦断した。天城の降雨量七 五〇ミリ、最大時雨量一〇〇ミリを超え金山到る処崩壊して三〇〇〇余箇所、崩壊 の土砂木石は豪雨を堰き止め豪雨又堰を破ることその何百回になるを知らず。ついに 修善寺橋に於て狩野の本流を堰き止めたり。為に上流地帯は一大濁湖と化し浮遊物 は皆天城を指して逆流するに至る。堅を誇る修善寺橋もその暴圧に堪ゆることを得 す轟然陥没した。時午後九時五十分頃か。橋壁を突破した濁湖は一大怒涛と化し、 まっしぐらに下流熊坂を直撃する。
かかる上流の事態を夢想だにしなかつた熊坂の夜は一瞬にして阿鼻叫喚の修羅地獄 無気味な地鳴りと荒れ狂う波の底沈んだ。
やがて水退き薄月に照らしださるる魔の爪跡、百戸の村にして夫婦もろ共死せし四 五組、鰥夫となりし十六人、寡婦五人、孤児二二人を出し、犠牲者の数は二九一人 にのぼり、家屋の流失七六戸一九三棟、耕宅地の荒廃三六ヘクタールに及ぶ。 かくの如き惨害は村史口碑にも伝承なく実に前古未曾有限会社にして、國この二十二号を 名づけて狩野川台風となす。
星移り人変って災害二十二周年を迎え。慈に熊坂土地改良区は碑を建て惨状を録すと 共に台風全殉難者九四一柱の霊を弔う。

昭和五十三年九月二十六日 熊坂土地改良区之建

狩野川台風 災害復興

あたらしい太陽がのぼる狩野川>は光をちりばめて流れる「復興成る」こころよいこの語感さわやかな朝の風がからだのなかを走りぬけるいばらのみち苦難のつみあげそのはてにおとづれたあたらしい太陽。 歴史は歩みをとめない復興もまた歩きつづけよう苦しいが輝かしいあすに向かって・・・あたらしい太陽がのぼる狩野川は光をちりばめて流れる(狩野川台風災害誌静岡県より)

狩野川台風 災害復興 熊坂

台風 災害復興 熊坂

狩野川台風 災害復興 熊坂
自動車で修善寺町への入り口として美しい狩野川大橋がかかった。延長199.1M,巾員8M,工費125,701千円 竣功34年

狩野川台風 災害復興 熊坂
狩野川記念公園
罹災者は困難をのりこえ生活の再建に普段の努力をかさねた。そしてその憩いの場として被害の最 も激しかった熊坂に建設された。(37.3.完成,面積20,632mm)


狩野川台風 災害復興 横瀬

旧道瓜生野側から横瀬地区入口を見る前に国道136号線が走っているここに修善寺中学校があった。

狩野川台風 災害復興 横瀬

狩野川台風 災害復興 横瀬


巾員5m位だった道路が今は11mに拡がり中小企業がどんどん進出してくる。(横瀬ナメド附近より三島方面を見る)

狩野川台風 災害復興 横瀬

狩野川台風 災害復興 横瀬


同じ場所より下田方面を見ると正面に修善寺橋が見える。当時この辺りは農地だった。

狩野川台風 災害復興 横瀬

狩野川台風 災害復興 横瀬


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